恩師のいま(過去掲載分) , 退職OB/OG(過去掲載分)

私の定年退職 池田 公昭

池田 公昭

池田 公昭

追手門学院中高大手前学舎に専任として勤めはじめて三十四年がすぎた。今年の七月で六十才になる。夜遅くまでの仕事・会議・なれないコンピューターを使っての仕事、体力的な問題もあって、一旦退職した。そして講師として再就職した。担当する授業が専任職の約半分、給与も約半分となった。

私のように中途半端なやめ方をしないでスッパリこの学校の先生をやめて縁切れた先生もいる。今年は大井、大木、望月先生がやめた。昨年は今倉、山本昌先生がやめた。私がはじめて専任になった時の、この学校の専任の先生の名簿は下の昭和四十四年度の分で、私にとって懐かしい名前がならぶ。「昭和四十四年」校長:小田 教頭:鈴木仁 教諭(国)崎山、荒西、大村、亀山、山本昌、(社)原田、西川、小椋、(数)中谷、鈴木豊、(特任講師)山田四、村田、(理)辻井、多田、森健、池田、(特任)辰巳、(英)佐伯、竹内、田中英、(特任)森敬、(保体)村井、井手、山本治、小柴、(技術家庭)田中昭、平見、(養護婦)沼口……計30名

三十四年たつと自分の教え子の子供が生徒として入学してくることがある。たいていは親の方が良くできる。できないからめんどう見のよいこの追手門に入れたのだろうなと思う。でも顔が似ているとか、体付きが似ているとか、または性格が似ているなどどこかで似ているのが面白い。名物先生といえば地理の阪口先生だったろう。その土地その土地の学習の時、その土地の民謡を朗朗と授業中に生徒に聞かせるのである。生徒も唱和し、あとで私に今日は「五木の子守唄」だった、今日は「花笠音頭」だったとか生徒が言っていた。

十五年ほど前の忘年会では島原、渋谷、宇佐崎、西窪の未婚の美人の女の先生が四人もいて、当時のキャンディーズの解散に合わせて「♪もうすぐ春ですね♪♪」を派手な短いめの服を着て可愛らしげなおあいそをして、手をふりながらカルテットで歌った。アルコールが入るとそういうものを見るとジッとしておられなくなる男の先生もいて、舞台の前まで行って何かしようとしたが、係りの先生に「歌い手さん、踊り子さんにさわらないようにしてください。」といわれていた。校長といえば、私が就職してからは、小田、鈴木仁、村井、荒西、阪口、中谷、佐伯、出口、山本治、竹内、小柴、亀井と変わり平均の在職期間は三年にもならない。これは生徒の学級委員選挙みたいに校長を選挙で選んでいるためだと思う。

勤めはじめたころ、校庭の南側にある校舎は木造二階建校舎だった。校舎の壁の色はクリーム色、屋根は赤い瓦で私はその柔らかい感じが好きだった。夏休み中など登校するとクマぜみがやかましく鳴いていた。

私が先生をしての楽しい思い出は陸上競技会の花の学年対抗職員リレーで二回優勝したことである。(四十一期、高一)、(四十六期、高一)どちらもアンカーであった、もう少しで逆転されるところを、背を丸め、命を縮める思いで逃げきったのである。ぼくが学校の先生をしてよかったと思う点は①健康できれいな体の少年少女が仕事の相手であったこと。②夏休みがタップリある点、運動部を持たない時など四十五日ぐらい休める。冬休みも、春休みもある。この二つ。

学校で働いていて好きな時間は①卒業式で表彰を受けに壇上に上がる生徒のクツ音が約千人いる中でもコツコツと聞こえること。②定期考査の時、まじめに生徒が受験してシーンとした中にもピリピリした雰囲気のあること。などである。

学校の先生の世界でも時々は面白いことがあった。ぼくが一番面白さを感じた実話。

① 放課後、生徒も先生も帰って誰もいないと思った先生が職員室で校内放送用のマイクを握り、一人カラオケ大会をしていると、思いもかけず出張から帰った校長が職員室に顔を出したこと。②高校の卒業式に出席しない他の学年の生徒が小学校門前の大阪城濠で釣りをしていて、ある先生が「おい、釣れるか。」と生徒に聞いているのを別の先生が見ていて職員朝礼でカンカンに怒ったのである。

この三十四年間で子供が二人でき、二人とも無事大学を卒業した。庭付きの家を通勤時間五十分のところに建てた。夫婦で趣味の海外旅行に十回以上も行った。そういうものを与えてくれたこの学校にとても感謝している。

2003年5月30日