(迫手門学院高等学校10期生)
我々の中での10期生は追手門学院中高等学校の10期生の意味なのである。その高校に私は就職した。
私が高校生の時ならった先生は英語の井町、寺田、数学の高田、赤井、国語の神楽岡、岩野、日本史の酒井、世界史の中川、物理の内田、化学の藤田、生物の入木沼、体育の神谷、中島先生などであった。
そういう人たちは茨木の高校の方に移っていった人が多い。
私と高校でいっしょに働くことになった先生は、崎山、辻井、山本治、森先生などであった。
今、本校はグラウンドはアスファルト製で校舎は鉄筋校舎だが、43年前の本校は土のグラウンドに木造校舎であった。校舎の屋根は赤色で校内の廊下は油を引いてあり、いつも油のにおいがしていた。
本校と大手前病院の間を市電が走り、北隣に古びたビルの大手前会館があった。
当時、私が高校生のころローマオリンピックが行われ、次のような新聞記事を読んでおもしろかった。「アメリカなどの西側の女子陸上競技選手のショートパンツに動きやすくするよう外側に切れ込みを入れた。そうすると下着などが少し見えて色っぽい、それで男子選手や観客に声をかけられ、嬉しくてヤル気持が出てくる。」というのである。私は大人の世界を垣間みた思いがしておかしかった。その次の東京オリンピックではお家芸の柔道で日本一の神永がオランダのヘーシンクに押さえ込まれて負けた。次のメキシコオリンピックの時は私はもうこの学校で教師をしていて「メキシコオリンピック」という映画を学校の映画鑑賞で見にいった。
当時いっしょに働いた先生は阪口、佐伯、原田、出口、竹内、山田、鈴木豊、崎山、荒西、亀山、大村、清水智、辻井、多田、平見、井手、沼口先生などであった。
この学校に32年つとめて不思議に思うことの一つは校長の決め方である。校長は35名程の専任の先生方の選挙で選ばれる。生徒達が代議員や学級委員を選ぶのと似ている。
白票を投ずる人もいるので15票ほどとれば校長になる。
任期は3年(以前は2年だった)で、この32年間で小田、鈴木、村井、荒西、阪口、中谷、佐伯、出口、山本、大村、竹内、小柴、亀井と13名が校長職となった。
平均在任期間は2.5年である。このことと、この学校が発展しなかったことと関係があるような気がする。
私が母校の追手門高校につとめている間に日本という国も大いに発展した。
その原因に日本人の特質のようなものがあるように思うのである。ある外国人記者が毎日新聞に書いた記事によると、日本の発展は日本人の談合体質によるものだという。日本人はむやみやたらと争わないで話し合いでカタをつけるので体力を消耗しないのだという。国政選挙でも自社公民推薦があって何かヘンに思う。日本人は判断の基準が、何が正しいか、ルール違反かどうかよりも、損か得かで行動を決めるのではないか。
学校の先生になってよかったことはいくつかある。
その一つは同じことを何年もつづけてやれるということで、生徒は新しくどんどん変わっていったが、私が教えている化学の教科書の内容は32年前とあまり変わっていない。
民間会社などでは、仕事内容は次々と何もかも変わるのではないか。
夏休みや冬休みなどの長い休みがって、心と体の休暇がとれたこともとてもよかった。
これで何回もリフレッシュをして寿命が延びた思いがする。
私は25期、28期、31期の中学3年間、46期の高校3年間の担任をした。
25期は今43才である。25期や28期の教え子の子供が本校に来るようになってきた。
その子供の顔を何食わぬ顔でジッと見つめていると、その親の顔とそっくりなところがあって面白いのである。生物学の不思議さのようなものを感じる。
10期生でクラスの名列表を1番から45番まで暗記している奴がいて、面白い奴だと当時思って私もマネをして覚えた。
油谷、池田(私のこと)、伊藤、浦上、江原、大野、岡田、木村、事口、米田、坂本、正垂、白川、新宮、関岡、田川、竹内、多田、中条、常川、寺そま、徳田、西浦、藤井隆、藤井教、藤原、本荘、正木、待井、水谷、溝口、村上、毛呂、青田、米田・・・・・・・たしかこうだったと思う。
2002・3・21記